10年目のここから。

皆さん、こんにちは!カナです。

3月11日で東日本大震災から10年を迎えました。
あの日、雪が降りとても寒かった日。全てのライフラインが止まりました。
テレビで報道されている映像を見たのは電気が来た日の事。
外で作業をしている時に近所の人が「電気きたよ!つながった!!」と
走ってきてくれたのを覚えています。

そして当館のTwitterが開設されたのは10年前。
こちらのツイートは震災の翌日に発信されています。

※「@kanyo11 2011」と検索欄で調べると出てきます。

10年前のあの日。
避難所になった場所の入口窓、中の壁には
「家族無事」
「○○避難所にいます」
「家族を探しています」
「○○地域の情報求む」等が紙に書かれ貼り付けられました。
地域住民の方々の名前を書きだした一覧もあり、
情報が少ない中でまとめて少しでも多く収集する必要がありました。
電波塔も被災しているため、繋がる場所を見つければそこに皆で行きました。
携帯を貸し借りして電話をかけました。メールをしました。

10年を迎えた「被災地」と呼ばれる場所。
たくさんの気持ちを、支援を頂き今があります。
10年を迎える間にも自然災害は起き続けています。
「予測」も大切ですが何より「今起きたらどうするか」が重要です。
これを読んで頂いているときにおこるかもしれない災害。
今一度、災害について考えて頂ける時になりますように。
不安なニュースが流れる中ではありますが、機会がありましたら
ぜひ、東北にお越しくださいませ。
あなたが好きになれる場所がきっとたくさんあるはずです。

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それではこの前のブログの続きとなります。
2月28日のフォーラムを終え、2日目となる3月1日。
エクスカーションが行われました。

「エクスカーション」って?
...エクスカーションとは、従来の見学会等とは異なり
向かった先、訪れた先で案内人(今回は「語り部」)に耳を傾けながら
参加者も意見を交わし合う「体験型の見学会」と言えます。

私は「南三陸コース」に参加+写真撮影をさせて頂きました。
当日の朝はフォーラム会場だった気仙沼を出発。

南三陸のコースはこんなかたちで進みました⇩
➀南三陸ベイサイドアリーナ(語り部スタート)
案内をして頂いたのは「復興みなさん会代表 後藤一磨さん」

➁袖浜・志津川漁港 (※車内で窓越しに撮影をしたため青みがかかっています)

➂高野会館
※「震災伝承施設」としても認定を頂いております。
その時のブログはこちら→「震災伝承施設に…「高野会館」と「命のらせん階段」が登録されました。」

当時この場所では町内の高齢者の方々の芸能発表会が行われていました。

地震が起きたのは閉会式直後のことでした。エレベーターは止まったために非常階段で自宅へ逃げようとする皆さんを現場に居たスタッフの判断で高野会館内に居るよう、
声をかけ上へと避難を呼びかけました。

簡単に剥がれることなんてない壁も
津波の脅威はものともせず剥がしもっていきました。(写真奥)

館内には壊れたシャンデリアのガラスが散らばり、

あの時の凄まじさ、そして10年の年月を物語っています。

参加した皆さんも様々な意見を交わしながら
メモや写真を撮影頂きながら語り部は進みます。

今は少し見ることがなくなったカセットテープ。
あの日、あの日まで、この場所でたくさんの人々の笑顔に音をつけてきました。

そして、高野会館の一番上へ。

階段を登って、広さはこんな感じです。

津波が到達しているのは屋上より下のライン。
しかし、高野会館にぶつかった波の衝撃で本来避難していた屋上は水浸しになりました。
そのため、高齢者の方々を上記の写真部分へ避難させるというかたちになったのですが、階段入口部分の鍵がなかったため、避難させる際には担ぎ柵を越えさせて上に向かわせました。

高野会館の隣にはスーパーや食事処があった「サンポート」と言う店があり、
高野会館前には病院がありました。
私も小さい時からこちらのお店には来ていて、とても馴染み深い場所です。
屋上の遊具が置いてある場所で遊んだ記憶があります。

次に後藤さんが見せてくれた写真は震災前の南三陸町の様子。

3.11のあの日。南三陸町を襲った大津波。同じ場所から撮影をしています。

こちらは町内の奥側から撮影をしていますので、当館がある場所は映っていませんが写真奥(左側)になります。
写真道路左手前がサンポートとその後ろに高野会館があります。

避難所から地元に帰ってきて車が調達できた頃、南三陸に向かいました。
かつて遊びにきたサンポートには海のブイや瓦礫が絡まり、
かつて店があった場所にも瓦礫が山積みになっていました。
知らない場所になっていたことに衝撃を受けたのを10年経った今でも鮮明に覚えています。
花火大会が開催されたとき、「早く!」と急かした道路も、
出店が立ち並んだ港も好きだった店もなくなっていたんです。
でもその記憶を知るのは「そこに居た人」だけです。

語れるのは、この場所を知る人が第一に。そしてそれを聞いた方が第二に。
それを繰り返していかなければ、
「ここにはなにもなかったんですか」の言葉でその場所はなかった事にされてしまいます。
思い出もその時何があったのかも。

➃戸倉地区 (戸倉小学校・戸倉中学校)

【戸倉小学校】※学校自体は高台に移り授業を行っています。

新しい体育館ができたばかりの小学校がありました。
3月11日の2日前。地震が起き津波注意報が出た時。
先生方は再度避難する場所の確認を行いました。
地元出身の先生が言葉にした意見をもとに、東日本大震災当日、
生徒・先生、避難してきた地元の人達は
「五十鈴神社」と言う丘の上にある神社に避難し助かりました。
赤い鳥居が入口に建つ御社です。津波はこの赤い鳥居の前で止まったといいます。
夜はとても寒く、焚火をして過ごしました。
一晩中卒業式に歌う予定だった川嶋あい様の「旅立ちの日に」を歌い、
励まし支え合って一夜を過ごしたそうです。

のちに、この時卒業生だった生徒さん達が卒業式を行った際、
川島あい様がお越しになり、一緒に合唱を行いました。

【戸倉中学校】※現在は公民館となっています。

後藤さんが示しているのは津波到達の高さ。中学校の1階部分まで及びました。

電気で動いていた時計は「あの時」のまま。

校舎と反対側にあった山。そこに避難した方もいます。
しかし、海側の津波を様子を見ていた方は「山から津波がきた」と言います。
川をさかのぼった波や、地形でぶつかった波が海の方向とは別のほうから襲って来たそうです。

この場所も最初の避難場所は体育館でした。
しかし、1人の先生の機転により「体育館」→「校舎」への避難が決定しました。それにより助かった命があります。
体験した記憶を後世の人達へ。
伝え続けていくことの大切さを感じたエクスカーションでした、

この場所で1日のエクスカーションは幕を閉じました。

動画がYouTubeに載っています。
歩きながらの撮影でございますのでご了承くださいませ↓

1. [youtube https://www.youtube.com/watch?v=AYfs2VZESTc]

2. [youtube https://www.youtube.com/watch?v=Ppr6E51fRmA]

3. [youtube https://www.youtube.com/watch?v=t5u6QQGA3iE]

4. [youtube https://www.youtube.com/watch?v=FzCw9Xi4hAA]

5. [youtube https://www.youtube.com/watch?v=sUByp06Ie0Y]

6. [youtube https://www.youtube.com/watch?v=BnDfNY_r2Fw]

震災後、沿岸部では防潮堤が次々と建設されました。
海が見えなくなった場所もあります。
自然災害を予測することはできても実際の現場の状況を随時、
事細かに分かるのは現地に居る人です。
今いる場所から避難場所まではどれくらいなのか、
もし災害が起きたら車は走れるのか、人は逃げることができるのか。

前回のフォーラムにもありましたが、
「他人事」ではなく「自分事」として考えてください。
ぜひ、この一年が震災を再度、もう一度考える一年になりますように。

低気圧&冬鳥その7

一週間ぶりのご無沙汰です。Bluebirder*Sです。

 

それにしても、凄まじい低気圧でした。

この13日に三陸沿岸を発達しながら北上した

低気圧の猛威たるや!

南三陸町内にも 激しい雨と風をもたらしました。

それはもう まるで台風並み。

 

そのせいで、震災遺構の高野会館の周囲はすっかり水浸しに。

14日の10時15分便の語り部バスは、

お客様を会館内にご案内出来なくなってしまい

申し訳ござませんでした。

 

そんな語り部バスのご案内の途中、

黒崎海岸では波乗りを楽しむサーファーの姿を久しぶりに目にしました。

語り部バスのご案内の最中でしたから、撮影は出来ませんでしたが、

こちらは、以前ご紹介したシーン。

お客様にも、普段は穏やかな志津川湾にも

実は 隠れたサーフポイント

「黒崎スポット」があることもご紹介出来ました。

かっこいいですよねぇ。

しばらく眺めていたくなってしまいます。

 

さて、13日には、徐々に強くなる雨脚の中

いつもの漁港のコクガンは 一体どうしているものかと

様子を観に行ってきました。

まだ、居ます。

この小さな港が また 彼らにとって 心地よい居場所のようで、

外海が荒れていても、

このように

突堤の内側では、穏やかな水面で過ごすことが出来ます。

 

だんだん強くなる雨になど めげる様子も無く、

自慢の羽で きれいに弾いた雨粒を背中に載せ

アマモを求めて 泳ぎ回っていました。

相も変わらず、元気いっぱいです。

既に 北帰行が始まったとはいえ、

南三陸海のビジターセンターによれば、

まだ近辺で90羽ほどが確認できているとのこと。

 

14日朝には、お泊り頂いたお客様から、

「まだコクガンは居るの」というお問い合わせを頂きましたが

大丈夫です。まだ 居ます。

た~だ、今回ご紹介している写真は、どれもブレブレ・・・。

雨雲の下、シャッタースピードが稼げないもので、この始末。

ご容赦くださいませ。

~~~~~~~

おまけ です。

「冬鳥その7」ということになりますが、

14日の午後3時半ごろ、休憩を終えて観洋に戻る途中

歩道から ぱっ!と飛び立つ 黄色い小鳥!!!

 

すわ! キビタキ?!!!

と、思いました。

が、まだ 夏鳥がやって来るには早すぎる。

なぜかまた、小生の進行方向に帰って来て、

しきりに植物の種子か何かをついばんている様子・・・

とっさに スマホのカメラを2倍ズームにして、撮ってみたものの

 

ご覧のように・・・光量も足りずブレブレで 

残念至極な ぼんやり写真に。 この「子」も 困り顔・・・。

 

図鑑で確認したところ、

その正体は 越冬中の マヒワの♂ でした。

どうやら「繁殖期以外は 群れで生活する」らしいのですが

彼は なぜか"単独"。

 

冷たい雨にすっかり濡れながら、

北へ旅立つ準備でしょうか、

一生懸命 餌をついばんで

ちっちゃな体に エネルギーを充電しているようでした。

 

 

後世へ伝え繋げる記録として

こんにちは、むっちゃんです。

一昨日で
東日本大震災から10年が経ちました。

10年という節目を迎え
自分自身の体験、想いを綴った
本を出版された方がいらっしゃいます。

元南三陸消防署副署長であり
現在、震災語り部活動をしている佐藤誠悦様です。

この度
《東日本大震災10年の思い》
亡き妻に捧げるラブレター
と題した本を出版されました。

奥様との出会いや素敵な想い出の数々
震災直後の状況など細かく記されております。

ぜひお手に取ってご覧いただきたいので
中身は紹介いたしませんが
冒頭部分を抜粋させていただきます。

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千年に一度の東日本大震災は
東北を中心とする太平洋沿岸部を、恐怖と悲しみの世界へ落とした。
愛する人や愛する家族、愛する同僚・友人、思い出の家々など
木の葉のごとく攫っていった大震災が憎い。
市街地は破壊され、自分が今どこにいるのかも分からなくなった。
地獄絵図の中にただ茫然としている姿に
無力感と恐怖感が全身を襲ってくるようだった。
懸命に「住民の命を!」と避難誘導、救助活動、救急活動、消火活動に身を置き
「やらねばならない!」という消防職員としての「使命感」を抱き
思い出の我が家や大切な家族との悲しい別れを胸に秘め
この大震災に命をかけて闘ってきた。
その記録を大津波の犠牲となった最愛の妻、亡き厚子に捧げるとともに
大震災激動の10年を懸命に生き抜いてきた体験と
その想いを記録として後世に残す。

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こちらの本は
当館の売店で販売しております。
(税込2,500円)

命ある限り語り、伝え、繋いでいきたいと願う
佐藤様の想いが詰まった一冊を
ぜひご覧くださいませ。

マリンパルだより  3月その2

震災から10年経ちました。これまでのたくさんのご支援ありがとうございました。

いらっしゃいませ。マリンパル保育士小野寺です。タイトルにもあるように、東日本大震災の発生から10年を迎えました。当時を少し振り返ってみると・・・。地震発生時、私はここマリンパルで保育中でした。お昼寝していた子ども達を抱え、園庭に避難。ホテルからワゴン車を一台借り、子ども達と待機しました。するとみる見る間にどんどん海の様子が変化し、ホテルのお客様、近隣の町民の方々、自動車で通りかかった方々が次々とマリンパルに避難してみえたため、園内に誘導しました。あっという間に保育室・ホールや廊下は避難者でいっぱいになってしまいました。電気・水道が止まってし舞いましたが。室内なので、寒さをしのぐには十分でした。その時、いた園児は5名。子ども達が動揺しないように、びっくりしないようにと、贅沢ではありましたが、一つ部屋を確保し、子ども達専用の部屋にしました。その日から日々、避難者の方々の対応と、子ども達が不安にならないようにと配慮し過ごしました。子ども達の各家庭も被災していると判断し、保護者の無事を祈るばかりでした。最初の子のお迎えが来たのは津波から4日目。一人保護者に渡すたびにホッとしました。最後の子どもが帰ったのは津波から1週間後。その間、私たち職員も交代で、町に向かい家族を探したり、安否の確認をしました。

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それから約一か月半後。4月22日(だったような気がします)保育を再開しました。幸い建物は地震の被害が無く、すぐに使用できる状態でしたので、町内のどの保育施設よりもいち早く再開できました。子ども達の家庭も被災しており、保護者の方々が生活の再建が安心してできるようにと園の再開を決めました。職員も全員被災しておりましたので、みんなで協力し、助け合いながら必死の日々でした。それでも、早く保育の仕事がしたいと願っていたので、再開した時は本当に嬉しかったです。子ども達も、待ってましたとばかりにのびのびと過ごせる場に笑顔でした。

当然、電気・水道が使えない中での保育でした。給食はお湯で温めたレトルト食品。食器にラップをかぶせての食事。(これはのちに衛生的に良くないからとの指導で、使い捨ての容器が手に入るようになってからそちらに切り替えました。)

再開し初日の食事はカレーライス

手前にある丸い缶に入っているのは、自衛隊より頂いた缶入りの炊き込みご飯です

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5月前半園庭で食べている炊き出しの風景・・・。保育を再開するに当たり、水・ミルク・哺乳瓶・おむつ・食事等々不足していることをSNSで発信し、全国からご支援の生活用品が続々とたくさん届けられるようになりました。

園庭の隅には仮設トイレがずらりと並んでいました。これにもずいぶんお世話になりました。水洗用のみずの補充は欠かせません!(女性の後方に見えるのが仮設トイレです)

支援物資の仕分けの風景。子供用品は園の子ども達で使わせていただきますが、その他の日用品は当ホテルの避難所で避難生活をする地域住民約600名の方々にもお渡しするために、保育しながら支援物資の仕分け作業も行います。

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日々物資に囲まれて過ごす子ども達でしたが、かくれんぼ気分で遊んでいました。

当時、1歳になったばかりの女の子です。離乳食も十分提供できませんでしたが、よく食べ、良く寝て、すくすく成長する姿は私たちの希望でした。

当時の小野寺です。すっかりやつれてしまい。。。がりがりくんです。人生初のSサイズになりました。今は、、、リバウンドし。。。○○サイズ。。。リバウンドって怖い。。。

紙おむつ等は、地域で困っている方々、気仙沼地域、近隣の保育施設とも分け合うためにお届けしました。

待ちに待った水道から水が出た日!7月2日!

みんな大喜び!水が使える喜びのハイタッチ!

やった~!みずだ~!!おトイレが室内で使える~~~!水のありがたさを実感しました!

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震災以来たくさんのボランティアさんが訪問してくださいました。すべてはご紹介できませんが。。。ほんの一部を(^^)

園庭に線路が出来て、汽車が走った日・・・

みんなみんな大興奮!順番待ちで楽しそうでした!

Christmasが近づくと、子ども達に笑顔を!と、サンタクロースが訪問してくれ、楽しい触れ合いが出来ました。

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震災以降、全国の多くの方々が南三陸、ホテル、マリンパルに目を向けて、手を差し伸べてくださいました。たくさんの方々の支援の輪、支え、応援があったからこそ、保育を継続でき、安心して生活してこれたのだと実感しています。感謝・ありがとうの気持ちでいっぱいです。10年が経過した今、目の前の子ども達の笑顔を見て思う事。この笑顔を見る為に今日まで頑張ってきたのだと。。。安心してマリンパルで過ごせる環境を作って頂いたおかげで今がある。。。と、実感しています。

震災後、子ども達が笑顔で過ごすことで、親も笑顔になる。みんな笑顔にしようを目標に保育してきたことが、実を結んで今たくさんの笑顔の花が咲いています。

これからも子ども達がいい環境で過ごせるマリンパルにしていきたいと思います。

全国、全世界のみなさま、これまでのたくさんのご支援本当にありがとうございました!

最後に。。。。津波直後からずっとホテルで先頭に立って指揮を執り続けてきた女将さん、震災発生時は気仙沼で被災し、4日かけて自力で南三陸をめざし戻って来られ、途中ご自身のお子さんの避難している小学校へ迎えに行き、引き取り戻って来られた副社長。。。(あの時、娘さんは、小学生。食事代わりに配給されたカロリーメイトを全部食べずにポケットに入れていたそうです。「おかあさんに」とお母さんである女将さんに一口でもあげようと考えていたのですね。その優しさに涙してしまいました)。。。工事関係者、被災者の受入から大変なご苦労の中、私たち従業員の雇用もしっかりと守って下さいました。本当に感謝しております。以来10年。様々な困難を共に乗り越え、さらにいまコロナ禍という事もあり、乗り越えるべき壁に立ち向かっています。震災をみんなで力を合わせて乗り越えてきた、当ホテルだからこそ、きっと大丈夫!と信じています。がんばるぞ!!がんばっぺ!!

震災直後からの一年を短くまとめようとするも、うまくまとまらず。。。文章力、表現力の無さを痛感しております。少しでも、当時の様子をご理解頂けたでしょうか・・・!

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

震災から10年目の3.11

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震災後今日まで、国内外問わずたくさんの方々に
ご支援やお励ましのお言葉を頂戴し、心より感謝申し上げます。
今後も震災を風化させないための「語り部バス」や
震災伝承施設「高野会館」と「命のらせん階段」をとおして、
防災・減災の活動を世界に広げ、
震災の教訓を後世に、
そして未だ被災していない未災地の人々に伝えてまいります。
最後に自然災害で亡くなられた方々のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

株式会社阿部長商店 南三陸ホテル観洋
代表取締役副社長 阿部 隆二郎

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震災から10年の節目を迎える本日。
当館スタッフも5階のロビー・ラウンジに集まり、
震災で亡くなられた方々に追悼の意を表し、
東日本大震災が発生した3月11日の14時46分に黙祷いたしました。

本日は天候にも恵まれ、
眼下に望む志津川湾はとても穏やかに見えました。

そして当館から歩いて15分程。
ここ「海の見える命の森」では、
ミャンマーから寄贈された南三陸大仏様が鎮座しております。

今年も新型コロナウイルスの影響で参加できない人も多い中、
この特別な日に様々な想いを持った約60名の皆様が集まり、
「海の見える命の森追悼セレモニー」を執り行いました。

こちらでも、14時46分にはお集まりいただいた皆様が、
志津川湾を眺め、合図とともに黙祷いたしました。

327人の命が助かりました震災遺構「高野会館」

昨年は震災復興祈念公園がオープンし、
南三陸町志津川地区の街並みは年々変わる中、
津波の脅威を後世に伝えるため、
重要な役割を果たすとともに、
この町の復興の様子を見守り続けております。

2012年2月より運行している「震災を風化させない為の語り部バス」は
戸倉地区と「高野会館」の2か所を主に立ち寄るコースでございます。
朝8:45出発の通常コ―ス、
朝10:15出発の高野会館特別コースがございます。

3月10日付の河北新報にも、
「高野会館」に関する記事が掲載されましたので、
こちらもご覧くださいませ。

当館には震災前からここ南三陸・気仙沼に住むスタッフと、
私のように震災後に初めてこの地を訪れて働いている、
県内外各地から来たスタッフが力を合わせて仕事をしています。

「南三陸の復興は観洋から」を合言葉に、
従業員一同より一層精進して参ります。

今後とも変わらぬご愛顧のほど、宜しくお願い申し上げます。

10年間応援への感謝。

 

売店のフジタです。⚾

2021年3月11日で東日本大震災から10年になります。

(「海の見える命の森」から志津川湾を望む)

みなさまからの、この10年間のご支援、応援に感謝いたします。

 

【南三陸復興ストア】では、

『震災から10年 応援ありがとうセット』

感謝の気持ちを込めて「送料無料」で販売しております、こちらのセットですが

たくさんの応援をいただいております。ありがとうございます。

普段現地でしか味わうことが難しい現在、新鮮な三陸の味をこの機会にお召し上がりくださいませ。

 

追記:

東日本大震災から10年。

みなさまおひとりおひとりにとって、この10年はどんな10年でしたか?

私はこの10年、色々なことがありました。

2011年8月、初めて南三陸町を訪れた時の光景は、今も脳裏に焼き付いています。

そのときから今もずっと、心の中で引っかかっているのは、

「自分は‟当事者”ではない、、、」

ということです。

2011.3.11

あの日、この町で自分自身が経験しなかったこと、継続して携わってこれなかったことが引っかかり、

「自分が震災のことを口にしていいのだろうか?今ここにいて、少しでも何か役割を担い、少しでも何かの、誰かのお役に立てているのだろうか?」

と罪悪感にも似た気持ちを抱えているというのが正直なところです。

お客様に震災のときのことを尋ねられても、主語が「私」でご説明ができていない自分。

こんなことで、ホテル観洋のスタッフが務まるのだろうか?

そんな思いを抱えたまま迎えた、2月28日の

『東北被災地語り部フォーラム2011』

そこでの「これからの若い世代がいかに語り継いでいくか」という話題で、

「知らないから語ってはいけないことはない」

というお話をお聞きして、少し気持ちが楽になった気がしました。

「語り継ぐ」というのは、

「語り=経験者」+「継ぐ=聞いた体験と自分の思い」

であるとのことでした。

「それならば自分自身にも担える役割があるはずだ」

と思えるようになれました。

この10年目を「節目」とよく言われていますが、それはあくまでも時間軸的なものであって、私が多くの方々からこの地でお話をお聞きしたことから、私個人が推測することは、あの日、大切な人、大切なものを失われた方々にとっては「節目」として区切りをつけるのは難しいことなのではないかということです。

ここでたくさんの方々が体験された恐怖やご苦労、苦しみは私には計り知れないものかと思います。私が軽々しく語れるものではないでしょう。

しかし、

「二度と同じことが起こらないように、語り継ぎたい」

というお声が、直接経験された方々から聴こえる以上、ご経験されたことや想いを教えていただき、それを自分事として語り継いでいくことが、まず一つ、私にできることなのではないかと考えております。

私はここ、南三陸町で、「いちホテルマン」としてだけでなく、「被災地のホテルマン」として、学び、自分にできることを続けていきたいと思います。

長くなってしまいましたが、最後までお読みくださり、誠にありがとうございます。

明日3月11日、午後2時46分、犠牲になられた方々を思い、そして、今後の災害への備えにも意識を傾けていただければ幸いでございます。

それでは、この辺にて。

三陸からご家庭へ!海の幸をお届けいたします。

大家好,我是惠!
皆さん、こんにちは、恵です。

宮城縣東臨太平洋,西面與奧羽山脈為鄰,處於寒潮,暖潮的交匯處,擁有世界知名的三陸漁場,豐富的魚貝類資源在日本也是屈指可數的。

宮城県は東に太平洋、西は奥羽山脈に接し、
寒波と温暖化の境目に位置し、
世界有数の三陸魚場をあり、
豐富な魚介類は日本でも有数でございます。

 

去年,今年在不同的環境中,
我們在不停的挑戰,在意識到地域區域性活性化的同時,
大家一直在努力創新,請讓我們為大家提供三陸之海的恩惠。

昨年、今年は今までと違う環境のなかでチャレンジあるのみでございます。
地域活性化も意識しながら、当館は創意工夫して参ります!!
三陸の海の恵みもご提供させていただきます。

前幾日,我們在樂天市場開放了【南三陸復興商店 】
向大家直郵三陸美味,大家可以登錄樂天網站挑選和購買。
請大家關注南三陸觀洋樂天市場。

#楽天市場 #OPEN #南三陸ホテル観洋

先日、楽天市場がOPEN!!
三陸から美味しい直送便!
南三陸ホテル観洋 楽天市場店
三陸の美味しいものを通販にてお届けいたします!!

#楽天市場 #OPEN #南三陸ホテル観洋

 

三陸美味的,好吃的海產品郵送到您的身邊。
期待大家的惠顧,先在這裏表示感謝。

三陸の美味しい、美味しい海産物をお届けいたします。
皆さんのご愛顧をお待ちしております。

下周再見哦。
それでは、また来週。

元気と美味しさを全国へ!
みやぎご馳走セット好評販売中!

☆FAXでのお申込み

北帰行を始めた コクガンたち

一週間ぶりのご無沙汰です。Bluebirder*Sです。

 

三寒四温を繰り返して 春になるのですが、

寒暖の差が大きいので

体調管理にも気を配らなくてはならない今日この頃、

いかがお過ごしでしょう。

 

既に、一部の集団は 北帰行を始めた コクガンたち。

ただ、いつもの漁港のコクガンたちは

同じ群れと思しき一群が まだ滞在している模様です。

それにしても 冬の一番寒い時期を振り返ってみても、

これほどまでに活気に満ち溢れた野鳥は

コクガンを置いて他にないくらいに元気。

 

日中は とにかくほとんどジッとしていない。

スイスイと泳ぎ回って 大好物のアマモを探し当てては

常に食べ続けています。

岸に上がって休んでいる個体も わずか。

あの元気は、一体どこから湧き出してくるのでしょう?

それだけ 好物のアマモは 栄養価が高く、

コクガンを元気にしてくれているのかも知れません。

そんな快活な様子を見ていると

とても地球上に9000羽も居ない絶滅危惧種とは 思えません。

ただ、現実的にその数が少なくなってきているのは

アマモが豊富な藻場が

徐々に失われてきている ということも考えられます。

天然記念物にして絶滅危惧種。

彼らを育む 南三陸町の志津川湾は

国内では初めて「豊かな藻場」として

3年前にラムサール条約に登録されましたが、

震災復興事業による防潮堤や川の護岸などのコンクリートによって

海のph濃度が変わり

近年の鮭の回帰数が激減して不漁になっているばかりか、

藻場が痩せてきている という話まで聞こえてきました。

今後、ウニの生育にまで影響しないか 心配です。

「ラムサール条約登録」の名目だけでなく、

いえ「登録湿地」だからこそ、

現状まだ豊かに見える志津川湾の自然は

私たちが積極的に維持し管理していかなければなりません。

コクガンたちのためにも、私たちの豊かな生活の為にも、

手遅れになる前に。

 

第3回東北被災地語り部フォーラム2021~分科会~

皆様、こんにちは!カナです!

昨日はぽかぽか春の陽気でした?
今日は少し風もあるからか、ひんやりとしてる南三陸です。

さて、2月28日・3月1日と行われた「第3回東北被災地語り部フォーラム2021」
今年は姉妹館である「サンマリン気仙沼ホテル観洋」にて開催となりました。

感染症対策のため定員を100名様までとし、
当日はフォーラムの様子をYouTubebにて生中継。
震災から10年を迎える今年に学びをより深めるフォーラムでした。

さて、昨日は「メインセッション」のブログが掲載されましたので
今日はその続きの「分科会」を各会場ごとにご紹介します。
YouTubeで生中継を行った分だけでなく、
各会場で撮影を行いましたので一緒にご覧くださいませ。

動画のURLと分科会内容一部を抜粋して掲載致します。

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【分科会➀ テーマ「次の10年を繋ぐ次世代の語り部」】

【コーディネーター】
雁部 那由多 様(東北学院大学教養学部地域構想学科2年生・防災士)
【パネリスト】
菅原 定志  様(気仙沼市鹿折中学校校長)
佐藤 克美  様(気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館館長)
久保 力也  様(㈱8kurabu/兵庫県立舞子高等学校環境防災科卒)
熊谷 樹   様(気仙沼向洋高等学校3年生・KSC(向洋語り部クラブ)全体リーダー)

動画はこちら⇩
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=kG_QGKL3bX0]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=olUGf0mFkfg]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=y2kEIMDKKEg]

「「語り継ぐ」という言葉がとてもハードルが高いように思えた。」という言葉が印象強く残りました。
この言葉を「語り(経験者による語り)」+「継ぐ(聞いた体験と自分の思いを語る)」に分け、
震災を経験していない「(生まれていなかった)記憶のない世代」でも語れる場をつくる。事が大切であり、
「語り」とは一言で伝えられるものではないのだと再度学ぶことができる分科会となりました。

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【分科会➁ テーマ「震災遺構・人の記憶を繋いでいくために」

【コーディネーター】
原田 吉信  様(3.11伝承ロード推進機構事務局長)
【パネリスト】
山内 宏泰  様(気仙沼リアス・アーク美術館副館長)
宮本 肇   様(前 北淡震災記念公園総支配人)
山崎 麻里子 様(中越防災安全推進機構アンバサダー)
佐藤 ひま里 様(バレッドキッズ志津川教室・中学2年生)

動画はこちら⇩
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KNmfP8aWTeY]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=863oBHKjk7w]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=HHsOyMOTf5o]

復興が進むにつれて整備されていく街並み。薄れていく爪痕、記憶。
震災の事を話すことも少なくなってきていた現状に佐藤ひま里さんは驚いたそうです。
私たちは「災害」と「災害」の間で生きていることそして「災害から身を守るのは人」だということ。
震災遺構は「津波の恐ろしさ」「避難の大切さ」を伝えてくれますが
それを話すのも人であること。
これから先も「命を守る行動の大切さ」を1人1人が
伝えて、行動していくことが大切になってくるのでは。と映像を交えながらお話頂きました。

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【分科会➂ テーマ「KATARIBE」(語り部)を世界へ

【コーディネーター】
岡崎 克彦  様(仙台国際空港株式会社取締役航空営業部長)
【パネリスト】
山内 松吾  様(南三陸Jr.Academy主帝/元志津川高等学校校長)
ゲルスタ ユリア様(東北大学災害科学国際研究所助教)
小宮 隆嗣  様(㈱リクルートライフスタイル/じゃらんリサーチセンター東北チームリーダー)

動画はこちら⇩

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=6Fmit_QeLHE]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=l9_KRlI_Mis]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=wqPImOUE65w]

元志津川高等学校校長の山内様からは
私も撮影に同行させて頂きました「オンラインによる語り部」についてのお話もありました。
当日の語り部は全て英語で行い、リモートのため南三陸の景色と共にお送りしたものです。
「オンラインで南三陸を旅行しよう」という想いも込められていました。
動画や写真だけではなく、リアルな時間で「今」の状況を伝えられたかなと思います。
「KATARIBE」という言葉を日本のみならず、世界共通の言葉に。

震災の時は世界の皆様からたくさんの支援と温かい言葉を頂きました。
自然災害はいつどこで起きてもおかしくありません。
そのためにも起きたことをお伝えし、一人一人が自分と周りも守れるような存在になることが必要となってきます。

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【ステージトーク】

【インタビュアー】
小林 裕   様(一般社団法人東北みらい推進機構副理事/元NHK報道局映像センター長)
【ゲスト】
麻生川 敦  様(多賀城市教育長/元戸倉小学校校長)
佐藤 健一  様(アジア航測㈱/元気仙沼市危機管理監)
佐藤 由成  様(元高野会館営業部長)

動画はこちら⇩

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=rMDEr-21V-Q]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=4DGc5uTNLDI]

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=2yVlvo0zhfE]

ステージトークでは当館の語り部でも伝えております、
戸倉小学校、高野会館のこと、震災当時の気仙沼の事がインタビュアーの小林様と
ゲストの3名様で行われました。

・3月11日の前、9日に起きた地震の話。
・事前の備えを越えてしまう事態がおきたことなどがあげられ、
震災当時の写真と共に語られました。

動画は全て3回に分かれ、アップされています。
ぜひ、お時間のある際にでもご覧いただけますと幸いです。
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3月1日の「エクスカーション 南三陸コース」につきましては来週、掲載致します。

第3回東北被災地語り部フォーラム2021~メインセッション~

こんにちは、むっちゃんです!

2月28日と3月1日の2日間
サンマリン気仙沼ホテル観洋を会場とし
第3回東北被災地語り部フォーラム2021が行われました。

コロナ禍の開催にあたり
450名定員の約1/4である100名迄という人数制限を設け
定期的に会場内の換気を行うとともに
参加者、及びスタッフの検温、マスクの着用と
こまめな手洗い、消毒といった対策を行いました。

今回のメインテーマは
「あの日からの10年を未来に繋ぎ、伝えていくために」

主催者代表挨拶を
㈱阿部長商店代表取締役副社長 阿部隆二郎が行いました。

来賓挨拶ではご祝辞を国土交通省東北地方整備局局長
梅野 修一様より頂戴し、代読を国土交通省 東北地方整備局
東北国営公園事務所長 佐々木 貴弘様に行って頂き、
次に気仙沼市長 菅原 茂 様にご挨拶頂きました。

開会後は
東北大学災害科学国際研究所シニア研究員の
川島秀一様による基調講話が行われました。

タイトルは「災害を書くこと・語ること」

昔は、書くこと(記録)が多くありましたが
今は語り部をはじめ語ること(記憶)が増えてきています。

専門用語や理論を使って単調に語られるものだけでなく
本来ある言葉や物が人生の豊かさ、複雑さにより
防災のため説明が変化していく――――
ナラティブ・ポリティクスという言葉も浸透しつつあります。

東日本大震災後は
「絆」「復興」「コミュニティ」「伝承」
といった言葉がよく使われるようになりました。
その言葉とともに、語ること(記憶)の語り部活動が各地域で増えました。

人間ゆえ、記憶が薄れていく風化は免れません。
だからこそ、当事者からの言葉、説明による
語ることの必要性をお話いただきました。

その後は
パネルディスカッション「次の10年の語り部」
オープニングプレゼンとして
気仙沼向洋高等学校3年KSC(向洋語り部クラブ)全体リーダーの
熊谷樹様から「未来への志」の発表がありました。

東日本大震災当時は小学校2年生だった熊谷様。
震災の記憶が残っている最後の世代として
若い世代に防災の輪を広げていくため語り部として活躍しています。

きっかけは、震災後に見た語り部活動のニュース。
語り部や家族、身近な人から災害について聞くことで
自分の命、周りの命を守ることに繋がると思ったそうです。

気仙沼向洋高等学校に入学後
地域防災リーダー育成事業に参加し
阪神淡路大震災で被災した兵庫県、豪雨で被災した岡山県を視察。
そこで、生徒たちの取り組みや伝承講話を通じ
伝えることの大切さを学びました。

その後、向洋高校全校生徒の意見により語り部クラブが発足。
主な活動場所は東日本大震災遺構・伝承館です。
日々活動する中で、各々の防災意識に差があることを感じました。
災害は誰にでも起こりうる自分事だということを伝え
「自分に起こったらどうするか」
「自分、周りの命を守る方法はなにか」
という質問を必ずし、回答で出た知恵を活かすべきだと話しています。

さらに同世代には
自分自身が震災の記憶が残っている最後の世代であることと
その経験を伝えることで震災を経験していない世代を守れるということを
伝えています。

未来で一人でも多くの命を助けられるように
今後も語り部活動をしていく、と決意を新たにしました。

続けて
コーディネーター/後藤一磨様(南三陸復興みなさん会代表)
パネリスト/佐藤敏郎様(NPOカタリバアドバイザー・大川伝承の会共同代表)
ああああああ青木淑子様(富岡町3.11を語る会代表)
ああああああ横山純子様(丸文松島汽船(株)松島復興語り部クルーズ語り部)
ああああああ齊藤賢治様(大船渡津波伝承館館長)
によるパネルディスカッションが行われました。

佐藤様は大川伝承の会共同代表であり
大川小学校で語り部ガイドをしています。

去年は300以上の団体、約15000人以上の方をガイドしたそうですが
今年はコロナ禍で例年通りとはいかず
新しくオンライン語り部の取り組みを始めたそうです。

瓦礫の山を見て未来など考えられなかった東日本大震災当時。
あれから10年。
その間にたくさんの方々が大川小学校を訪れ
清掃をし、花壇に花を植える作業をしていただきました。

去年の11月には
初めての宮城県新任校長研修会が大川小学校で行われ
ガイドを務めた様子も大々的に取り上げられました。

多くの方々に支えられて経過した10年は
長くもあり、短くもありました。
いつか、大川小学校が震災遺構として
しっかりと向き合える場所にしていけたらと考えています。

青木様は富岡町3.11を語る会代表です。

人の世に起きたことは人の言葉で語り継いでいかなければならない
という想いのもと、語り継ぐ人材の育成を行っています。

主に取り組んでいる活動は
①語り人活動の充実と拡大
②とみおか表現塾の開設
③演劇キャンプin富岡の開催
④動画制作と映画作り教室
⑤世代間交流会の実施

これらの活動を2013年から開始しています。

富岡町は人口約16000人の小さな町でした。
東日本大震災翌日の3/12の朝
町内全域に全町民へ避難指示が出ました。

全町民が車に乗って避難しました。
この時点では、全員がすぐに帰れると思っていたそうです。

4/22、富岡町は全町立ち入り禁止になりました。
立ち入ることが禁止され、瓦礫を片付ける作業すら許されず
この状況が1年以上続きました。

2013年に全町立ち入り禁止が解除され
区画ごとに立ち入り許可の時間が設けられました。
「やっと帰れる」
そう思っていた矢先、目の当たりにしたのは
津波で流され姿を変えた故郷、倒壊した家々。
ようやく帰ることができた方々の気持ちを想像すると
とても胸が苦しくなります。

2020年7月現在
富岡町に居住しているのは約1500人
元の人口から考えるとまだ1万人以上が避難先で暮らしています。

そして、小さい規模ではありますが
小中学校が戻り、子供たちが元気な姿を見せています。

子供たちと町を繋げるべく、町と小学校が連携し
町の防災無線を子供たちの声で放送しています。

子供がいるという存在感
町のために何かやっているという繋がり
これも一つの語り部活動です。

富岡町は、3.11の現状と課題を伝え、共に学ぶ町。
表現力を育て、語り継ぐ人材を育てることを目標に
今後も活動に取り組んでいきたいと話しました。

横山様は
松島のクルーズ船で語り部をしています。

東日本大震災当時は船の中。
朝に両親と喧嘩し、帰ったら謝ろうと反省していた矢先の震災でした。
両親にごめんと一言謝ることすら叶わなくなり
今でもそれを後悔し続けています。

自身の経験を活かし、周りにそんな想いをさせてはいけないと
「悪いと思ったらすぐ謝ろう」
「よかったこと、嬉しかったことがあったらお礼を言おう」
言葉にする大切さをを伝えて10年が経ちました。

地元の野蒜は津波の被害を受けましたが
現在は90%以上の災害住宅が完成し
新たなコミュニティも生まれています。

自分の地域を愛し
ずっと暮らしていきたいと思える地域づくりをしていきたいと話しました。

齊藤様は
大船渡津波伝承館で館長をしています。

近日中に大きな地震が来ると思っていた齊藤様は
「地震が来たらどうするか」
「どこへ避難するか」のシミュレーションを常に行い
社員にもその避難方法を日頃から話していました。

東日本大震災当日。
何年も前から行っていたシミュレーション通りに避難し
自分も含め社員全員が無事でした。

震災直後
記録しておかなければとすぐに携帯を取り出し撮影を開始しましたが
想定外の大津波でその後の記憶はほとんどないそうです。

語り部を始めたのは、当時の映像が残っていて
この津波の恐ろしさ、命の尊さを伝えるべきではないかと
東京の方々から背中を押されたのがきっかけでした。

語り部活動を行っていく中で
逃げずに津波で亡くなった方が70%もいることを知り
正常性バイアスについて深く考えていくべきだと重要視しています。

たくさんの命が失われたのは事実です。
でも、その中の70%はちゃんと逃げれば助かった命です。

こんなこと二度とあってはならないと
周りの命を守るため伝承活動を続けていく決意を新たにしました。

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まもなく震災から10年。
大きな節目ではありますが、新たなスタートとして、これからも途絶えることなく
語り部として、防災・減災活動に取り組んで参りたいと思います。