じゃらん編集長が選ぶ【元気な地域大賞】を受賞しました!

こんにちは、むっちゃんですʕ•ﻌ•ʔฅ

南三陸ホテル観洋が主体となり
復興庁・リクルート様・VISIT東北様と昨年一緒に
岩手県施設と連携した事業である
『Kataribe(語り部)を世界へ』宮城・岩手三陸沿岸部交流拡大モデル事業
じゃらん編集長が選ぶ 元気な地域大賞を受賞しました!!

震災を風化させず、次の世代に安心で安全な未来を引き継ぐため
命を守ることや生きることの大切さ、震災から学んだことや教訓になったこと
偉大な自然や海の恵み(世界三大漁場)と共生・共創し
未来を描くことの意義などを世界へ伝える取り組みです。

私たちは、自分たちで仕掛けたことが周囲に波及し
そこでコミュニティが生まれ、マーケットを創り活性化させることも
観光業の務めだと思っております。
東北の「語り部」を世界へ発信する挑戦は、まだ道半ばですが
必ず成功させ、真の復興へとつなげていきたいと思います。

先日、リクルート様から朝野部長と山口GMにご来館いただき
じゃらんアワード2019「元気な地域大賞」のミニ授賞式が行われました!

「元気な地域大賞」は2019年度1年間で
地域の良さを活かした魅力的な取り組みをされた地域に送られます。
リクルート様、ありがとうございます!

東日本大震災より今日まで「1000年に1度の学びの場」と考え
防災・減災と教育伝承の為、語り部活動に努めてまいりました。
9年目を迎え、活動の輪がより広がり隣県と連携や
官民で力を合わせた取組が出来たことをうれしく思います。
この度の受賞は、熱意や志を同じくした方々に関わって頂いたおかげでございます。

皆様に感謝いたしますとともに
今後ともご指導、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

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じゃらん編集長が選ぶ 元気な地域大賞を受賞!~Kataribe(語り部)を世界へ~

皆様こんにちは、マッキーです。

今回はとってもめでたい受賞報告!
当館が主体となり、
復興庁・リクルート様・VISIT東北様と
昨年一緒に岩手県施設と連携した事業である
『Kataribe(語り部)を世界へ』宮城・岩手三陸沿岸部交流拡大モデル事業が、

「じゃらん編集長が選ぶ 元気な地域大賞」を受賞しました!!

こちらは『じゃらん』編集長の審査により、
独自性・協働性に特に優れた地域に贈られます。

評価コメント:
宮城県沿岸、岩手県沿岸といった県も違うエリアにて、
現在認知が高まってきている語り部を広域連携のテーマとしてスタート。
『じゃらん』の制作ノウハウを参考にし、
語り部に焦点を当てた体験プログラムや宿紹介パンフレットを、
日・英・繁体字にて制作展開するなど、
「Kataribe」として世界に発信するという次のステップへと進めています。
震災復興を、独自の観光コンテンツに変化させているという点も高評価につながっています。
※以上リクルートライフスタイル様、
『2019年度の1年間に顕著な実績を収めた宿泊施設を表彰「じゃらんアワード2019」東北ブロック発表!』より抜粋

震災を風化させず、次の世代に安心で安全な未来を引き継ぐため、
命を守ることや生きることの大切さなど、震災から学んだことや教訓になったこと、
偉大な自然や海の恵み(世界三大漁場)と共生・共創し、
未来を描くことの意義などを世界へ伝える取り組みです。

私たちは、自分たちで仕掛けたことが周囲に波及し、
そこでコミュニティが生まれ、マーケットを創り活性化させることも観光業の務めだと思っております。
東北の「語り部」を世界へ発信する挑戦は、まだ道半ばですが、
必ず成功させ、真の復興へとつなげていきたいと思います。

岩手県釜石市・浜辺の料理宿「宝来館」女将 岩崎昭子様

三陸ひとつなぎ自然学校代表の「伊藤 聡」様

本当に多くの皆様や海外の人々に支えられて、
受賞いたしました。

これからも語り部バスをはじめ、
三陸沿岸の方々と連携して、
震災を風化させないように努めてまいります。

各種リンクはこちらから!

【リクルート様プレスリリース】

【Kataribe to the world】※パンフレットダウンロード可

【南三陸ホテル観洋公式HP】

【じゃらんネット「南三陸ホテル観洋」】

PS.ちなみに気仙沼プラザホテルは
【じゃらんオブザイヤー「泊まってよかった宿大賞 夕食」東北エリア 51~100室部門 第3位】で受賞です。

———————————————
March 11th, 2011
Sanriku Region devastated by the Great Earthquake
of Eastern Japan (Aomori, Miyagi, and Iwate prefectures)

On March 11th of 2011 at 14:46 and 18 seconds (Japan time), occurred an Earthquake with a hypocenter at a 24Km in the open sea of the Sanriku region.
It was a magnitude 9.0 (magnitude 7 in the Shindo scale) earthquake, the strongest earthquake ever measured in the history of Japan and its surroundings at that time.

A huge tsunami was occasionated by this earthquake with waves more than 10m of height reaching up to 40.1m, the Kanto and Tohoku regions received catastrophic damage along their shores. The Sanriku region which was blessed by the sea received serious damage where the tsunami arrived and numerous precious lives were lost.

There were 18,429 lives among the dead and disappeared. We need to spread to the future world and future generations this reality and experiences, this is the reason we are alive.

In this region, we have confronted several times with natural disasters like tsunamis in the past, our people continued learning the lessons even when we have had numerous casualties.
We have abundant nature from the sea and its blessings, forests, and rivers, we also live our lives with a strong feeling of the importance of protecting lives from natural disasters and to live in society.

We want the people of the world to feel and learn these important things, that is why we keep on storytelling (Kataribe) activities.
Kataribe means those people that want to pass down these important things to the world as a region devastated by a tsunami.

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全国被災地語り部シンポジウム㏌東北~ロビーコンサート・オプショナルツアー~

皆さん、こんにちは!カナです(・∞・*)

さて、2月24日・25日に開催された
「第5回全国被災地語り部シンポジウム㏌東北」
引き続き、参加した部分のご報告を致します。

24日の最後に行われたのは、
ラウンジ特設会場での「オトガヨロコブコンサート」楽器はマリンバです。

ご宿泊中のお客様やシンポジウム参加のお客様が集まり、音色にうっとり。

最後には中島みゆき様の「糸」を合唱。素敵な歌声と音色が響いていました。

翌日。2月25日。
「海の見える命の森コース」や、
「大川小学校」の語り部コースのオプショナルツアーへ。

私は大川小学校の語り部コースへ参加致しました。
道中も大川伝承の会の佐藤敏郎様にお話頂き、

大川小学校に到着後は、
佐藤和隆様(写真左)と佐藤敏郎様(写真右)の2つに分かれお話を伺いました。

大川小学校(宮城県石巻市立大川小学校)は

1873年(明治6)年 桃生郡釜谷小学校として開校。
1985年(昭和60年) 大川第一小学校と第二小学校が統合され、
大川小学校となり、現在残されている校舎が完成

2011年(平成23年)3月11日 東日本大震災の津波で被災
2018年(平成30年)3月31日 閉校

学校の教室は「扇形」教室の半分を壁で仕切る事ができ、
そのため教室を半分にして使用することができました。
校内にはアッセンブルホール(多目的室)や吹き抜けなどもあり、
私たちがよく目にする四角校舎ではなく、丸いデザインの校舎です。
大川小学校を卒業した生徒の皆さんは「なんで他の校舎は丸くないの?」と
驚く子達が多いんですと、佐藤様に教えて頂きました。

体育館に繋がる渡り廊下の窓は「ガラス製」
運動会の時は校庭から良く見えるここに「得点板」を設置しました。

色紙でつくった花飾りを飾れば花道にもなりました。

外では校庭とは別に「相撲場」や「野外ステージ」。
その野外ステージの壁には北上や石巻の景色が描かれ、
大川小学校校歌の題名である「未来を拓く」の文字があります。
中庭は一輪車で遊ぶ子供たちの声でいつも賑わっていました。

遊び、学び、思い出が溢れる場所。ここであの日 何があったのか。

私は佐藤敏郎様のお話を伺いました。

2011年3月11日 14時46分から15時37分
【14時46分】 地震発生。強い揺れが約3分間続きました。
(東北地方は3日前の9日にも地震が発生し、津波注意報が出ています。)
【14時49分】 校舎から出る際先生が「津波が来る。山へ逃げるぞ」を声をかけ
山に向かった児童もいましたが、まずは校庭に整列することになりました。
【14時52分】 大津波警報 発令。かつてない緊迫した警報。スクールバスには会社から「こどもを乗せて避難」という無線が入り
すぐに出られるように待機していました。
【15時00分頃】 地域の人や迎えにきた保護者、児童が山への避難を進言しています。
【15時25分】 町の広報車が高台避難を呼びかけ通過しています。
【15時32分】 大川小学校と北上川の真ん中にある富士川が越流。
【15時36分】 移動開始。北上川大橋の三角地帯へ。
【15時37分】 北上川が越流。学校に津波到達。
その後、陸を遡上した津波も到達。校庭で渦をまきました。

津波は家屋、車、土砂、そして海岸にあった数万本の松等を巻き込み流れ
北上大橋にへばりつき流れをせきとめ、一気に溢れました。
下記の写真にうつっているのが被災前(上)・被災後(下)の町と橋の様子です。

橋の4分の1ほどが流失、堤防も決壊しました。
校舎内の時計は全て到達時刻の「15時37分」で時を止めています。

そして次に校庭脇の山へ向かいました。
ここでは毎年3月にシイタケ栽培の野外活動を行っていた場所です。
シイタケ栽培を行っていた場所より少し登ると、
コンクリートのテラスのような場所に出ます。
(どなたでも向かうことは可能ですが斜面となっていますので、
お足元にはお気を付けくださいませ。)

※ここは震災後ではなく震災前から崩れないように土留めを行っていました。
低学年の生徒さんも授業で使用されていた場所との事。

ここからは大川小学校そして北上川、遠くの山まで見渡せます。

大川小学校の周りには住宅がたくさんありました。
あの日、避難可能な情報は十分にありました。
保護者、地元の方、防災無線、指揮台に置かれたラジオがありました。
市の広報車は15時25分に避難を呼びかけ釜石を通過しています。

私も実際に山へ登り校庭に戻ってきて感じたことがたくさんありました。
ですが、私が見て思うことと皆さんが見て思うことは別々です。

大川伝承の会様が作成したものには、
「本当に恐ろしいのは津波ではなく、
大事なものが見えなくなってしまうことです。
それは、あの日の校庭、事前の備え、
そして私たち一人一人の中にもきっとあります。
あの日の校庭を考えることは、
子どもたち、先生、そして
未来の命に向き合うことです」と記されています。

紙のパンフレットにはたくさん情報が記載されています。
しかし、紙だけを見ているのと実際に学校へ行くのとは
まったく違います。

「他人事」自分の場所は安全だから大丈夫だろう。ではなく、
「自分事」万が一 今、災害が起きたらどうすればいいか。考えてみてください。

その考えが自分のためであり、
もし周りに迷っている人がいればその人の助けにもなります。
そして時間があればぜひ、皆様の足で写真の場所へ向かってみてください。

大川伝承の会 様
あの日の事、今の事、これから。が綴られています。
下記よりご覧くださいませ。
小さな命を考える会 様

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第5回全国被災地語り部シンポジウム<オプションツアー>海の見える命の森

こんにちは、むっちゃんです。

本日は、先月24日と25日の2日間に渡り開催された
第5回全国被災地語り部シンポジウムin東北
オプションツアー 海の見える命の森
の様子をお伝えします。

海の見える命の森までは徒歩移動となります。
ご案内は、三陸復興観光コンシェルジュセンターの阿部寛行様。

約15分、歩いて麓まで到着しました。

ここから再び歩いて山頂を目指します。

その途中に置かれている材木には
今まで来られたボランティアの方々の名前が書かれています。
たくさんの方々のご支援により、今もなお整備が進められています。

山頂に着いて振り返ると、目の前には海が!

あいにく少し曇っていましたが
晴れの日は青々とした雄大な志津川湾を見渡すことができますよ。

山頂で海の見える命の森のご案内をしていただいたのは
南三陸復興みなさん会代表の後藤一磨様。

海の見える命の森は、志津川湾の海の要の位置にあります。
南三陸に降った雨は他の地域に流れ出ることはありません。
志津川湾のみに注がれ
海の水が綺麗であるか汚くなるかは我々の生活にかかっています。

東日本大震災当時、津波が船も家も、この景色さえもさらっていきました。
この地域に住む人の収入源は、ほとんどこの海からでした。

ボランティアの方々の手を借りて養殖を再開した頃
今までに見たことのない素晴らしいワカメが採れ、倍の値段で取引されました。
「ワカメさえ育てていればまたこの地域で暮らせる」「再び家が建てられる」
誰もがそう思いました。

牡蠣も安定した収入源でした。
たくさんの人が養殖をし、育ちは遅いもので約2年。
2年間育てなければ収穫できなかったのです。
しかし、震災の年の8月に新しい稚貝を入れ、半年後に開けてみると
2年経った牡蠣と同等な大きさに育っていました。

研究者に調査を依頼した結果
震災前、海底にあった1mを越すヘドロが
津波により綺麗さっぱり無くなっていたのです。

水質は50年若返ったと言われています。

津波は、単純に「悪い」「悲しい」ことばかりではありません。
人間が汚した自然を50年も若返らせるという驚異的な結果をもたらしました。

命をつなぐ、命の循環をここで一望でき、命を支えてくれる森
そこから「海の見える命の森」と名付けました。

津波のあと、当たり前にあった全てが何もかもなくなりました。
便利な道具も無く、燃料や電気も何もない状況で人が生きる
そういった体験ができる場所になればと考えています。

こちらは、ミャンマー連邦共和国の
Nay Myo Aung氏
Maung Htet Myat Oo氏より御寄贈頂いた南三陸大仏です。
開眼法要の様子はこちら→「南三陸大仏」開眼法要

新しく設置したバイオトイレの他にも

現在、テラスと小屋の建設作業中です。
清水寺の舞台のような
地面を掘らずにテラスを作り、三坪の小屋を作ろうと計画しています。
傍にわざと木を残したのは、日差しや真っ向からくる海風を防ぐためです。

最後、ご参加いただいた皆さまには海へ向かって黙とうを
そして、集合写真を撮影しました。

海の見える命の森は、いつでも、どなたでも出入り自由です。
ご宿泊のお客様も、日帰りのお客様も、付近を散策したい時にオススメです。
季節によって山の表情は変わりますので
一度行ったことがある方も、何度でも足をお運びくださいませ。

植樹された桜が咲いたらお花見を。
小屋とテラスが出来たら夏は涼みにこの場所で。
キャンプも出来る場所になったら一層賑わいを増すでしょう。

海の見える命の森の未来が楽しみです。

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第5回全国被災地語り部シンポジウム<分科会③>未来への伝承~震災遺構と私たちの向き合い方~

こんにちは、むっちゃんです。

24日と25日の2日間に渡り
第5回全国被災地語り部シンポジウムin東北が開催されました。

本日は、その時の
分科会③ 未来への伝承~震災遺構と私たちの向き合い方~
の様子をお伝えします。

コーディネーターは
小さな命の意味を考える会・大川伝承の会 共同代表の佐藤敏郎様

パネラーは
志津川高等学校、多賀城高等学校、向洋高等学校
釜石高等学校、階上中学校の生徒の皆さま

サポートとして
東北学院大学の雁部那由多さん
釜石高等学校の洞口留伊さんにお越しいただきました。

分科会のタイトルになっている通り
今回のテーマは「震災遺構との向き合い方

東日本大震災からまもなく9年が経過しようとしています。
当時を知らない人たちへ伝承し続けていくため
各地には震災遺構が多数あります。

しかしながら、震災遺構という存在に賛成の方ばかりではありません。
震災を風化させないためにどう向き合っていくべきなのか
各々日々の活動報告と共に話し合いました。

①階上中学校

階上中学校は昨年10月より
ボランティア活動として気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館で
館内ガイド(語り部活動)を行っています。
(活動に参加しているのは3年生5名、2年生13名、1年生7名の計25名)

2019年9月23日の第一回練習会で
震災伝承ネットワークの方々から語り部を教わり活動開始。
2019年9月29日の第二回練習会では、前回学んだことを活かし
当日来観していた階上中学校の同窓生の方々のガイドを担当しました。

日本人だけでなく、JICAの方々や、ACCU中国教職員の方々など
海外からのお客様へのガイドも担当しています。

2019年11月24日には
来館された安倍晋三内閣総理大臣のガイドを代表して3年生5名が担当。
他にも防災フォーラムへの参加や、勉強会も行っています。

館内ガイド(語り部活動)を始めたきっかけは
実際に語り部をやっている人を見て「やってみたい」という気持ちになったから。
最初は難しくて大変だったけれど、今では緊張も薄れ
しっかりと伝えられるようになったそうです。

語り部活動を行う中で工夫しているのは
津波の怖さを分かってもらえるように正確に伝えること。
伝承館へ来る人たちは実際に津波を見ていない人が多いので
ただ語るだけではなく、逆に質問をして興味を持ってもらえるよう工夫しています。

階上中学校では、この語り部活動に力を入れています。
伝承館でしか見れない、聞けない話がたくさんあるので
ぜひ自分の目や耳で体験してほしいと考えています。

②多賀城高等学校

多賀城高校の教育目標は
「さとく ゆたかに たくましく」という
知性の伸長、人格の尊重、心身の健康を掲げています。
約800名の生徒が通い、災害科の開設から4年目を迎えました。

東日本大震災当時、市内の防災無線は聞こえず、情報がほとんど無い中
帰宅可能な生徒には帰宅許可が出ましたが、帰宅途中で津波に遭遇し
歩道橋へ避難、そこで一晩過ごした生徒もいたそうです。

そういった経験から、震災後すぐに津波波高標識設置活動を開始。
市内を襲った津波がどのくらいの高さだったのか
塀や壁に残った跡から波の高さを調査。
測量を行い、道路脇の電柱に津波波高を示す標識を設置したことにより
震災の伝承だけでなく、通学路の安全や通行人への注意喚起としての
役割も果たしています。

しかし、標識の設置は簡単ではありません。
その都度、電柱への設置許可願いと設置後の報告が必要であり
中でも一番の課題だったのは住民の方々の理解です。
自宅前の電柱に標識を設置することは必ずしも快いことではなく
できれば津波のことは思い出したくないという方もおりました。
そのため、生徒会で多賀城市にお願いし
各自治会長に集まってもらって活動の趣旨を説明。
様々な意見がありましたが、最終的には
「高校生がいる活動なら応援する」という言葉を頂き本格的に活動を開始。
これまで設置した標識は100ヶ所を超えています。

東日本大震災からまもなく9年。
建物の建て替えや塗り替えで津波の痕跡が消失してきている中
津波被害にあった家や企業を実際に訪れ、当時の様子を聞き
今度は波高標識を壁に設置する新たな活動を行っています。

他にも、まち歩きといった
津波波高標識をたどりながら、学校を訪れた方々に被災状況を説明し
案内するという活動も行っています。

生徒が手書きで作成した案内マップを持ち
津波が襲来した場所を歩き、津波の高さを実際に感じてもらいながら説明します。
活動を続ける中で
沿岸部と内陸部の方々の津波に対しての意識に差を感じたそうです。

さらに、東日本大震災メモリアルデーを毎年開催し
全国の高校生約200名と様々な意見を交換し、連携を深めています。
震災遺構である荒浜小学校などで被災地スタディツアーを行ったり
グループごとでワークショップを行い意見交換をしたり
ポスターセッションでお互いの活動を紹介したりしています。

津波波高標識を設置することで震災の痕跡を未来に残し
まち歩きを行うことで津波被害について理解を深めてもらう活動を通し
高校生にも防災・減災活動として震災の伝承ができると実感。
これからも風化させないよう、自分たちが学び続けるだけでなく
たくさんの方々に発信していきたいと考えています。

③向洋高等学校

向洋高校は、地域防災リーダーとして全国の視察や語り継ぐ勉強と
VFCというボランティアフレンドリーサークルの活動として
ボランティア活動をしながら防災についての勉強を日々行っています。

④釜石高等学校

釜石市が主催の、年齢制限や震災の経験などを問わずに募集している
大震災釜石の伝承者(震災の教訓を語り継ぐ意思のある人)という資格を取得。
ラグビーワールドカップの時や、友人や家族など身近な人へ
防災を語り継ぐ活動を行っています。

活動報告のあとは、コーディネーターの佐藤様よりこんな話がありました。

中学校の国語教諭を担当していた頃
震災の翌年に俳句の授業をした際に
コンビニの 窓に汚い 水の跡
という句を詠んだ生徒がいたそうです。

震災直後の1年、2年目頃までは、どこを見てもここまで津波がきたという
事実を目で知ることができていました。
間もない頃は、コンビニの窓も震災遺構だったのかもしれません。

建物の上にバスが乗っていたり、陸に船が乗り上げていたり
それが今では解体され、もしくは自然消滅となっています。

震災遺構は
①保存 ②解体 ③未定
の3つの道をたどると考えられています。

何故残すのか
保存や解体、未定という選択にあたって何か課題があるのではないか
そういったことも含め、各グループでフリートークを行いました。

話し合いの中で生まれた課題などは下記の通りです。

・形あるものいずれは壊れてしまう。どうやって保存し続けていくのか。

・語り部活動を行っているが、それは地域の人たちに本当に浸透しているのか。

・保存したい派と保存したくない派で意見がぶつかっている。
保存したい派は、震災遺構を見て感じて後世に伝えていくため必要だと考えている。
保存したくない派は、震災の気持ちを思い出したくないという気持ちが強い。
この2つの意見をどうやったら釣り合わせることができて、折衷案を出せるのか。

・保存するためには年単位で維持費がかかる。
その維持費をどこまで落とすことができるのか。

・震災遺構は伝承していくために必要不可欠。記録された映像とはまた違う。
しかし、それを見て、つらい思いをする人への考慮も必要。

・震災遺構を見ると、当時の悲しい記憶を思い出す人も多いが
その悲しみがあるからこそ、津波や震災の恐ろしさがリアルに伝わって
防災や減災に繋がるのではないかと思う。

確かに、震災遺構は記憶を風化させず伝承していくために必要であると思います。
現物を残すことで伝わることがあるけれど
現物が残っていることによりつらい思いをしている人も少なくありません。

震災遺構の中で、たくさん人が助かった場所もあれば
たくさん人が亡くなった場所もあります。
じゃあ、人が助かった場所を残し、亡くなった場所を壊そう
そんな簡単な話でもありません。

サポートの雁部那由多さんは言いました。

「例えば、自分が通っていた小学校が震災遺構になったとしたら
助かった立場からしたら残してほしいと思うし
働いていた先生が仮に亡くなったとしたら反対すると思う。
自分の中でも、当時の立場が違ったら全然違う意見になるのではないか。
これが震災遺構の難しさ。
大事なのは伝える側からしたらどうなのか
地域の人たちからしたらどうなのかをすり合わせていくこと。
一番は色んな立場の人から賛成反対も含め色んな意見をどんどん聞くこと。
対立とはいかなくても結果的にはお互いに考える良いきっかけになる。
保存、解体とは別にある未定という選択肢は個人的にはとてもいいと思う。
どちらか決められる時がきたら決めるというやり方もあり。
震災遺構が誰にとってどんな意味を成すのかを意識していくことが大事」

残すのか、壊すのか。
答えはどちらか1つ。
けれど、どちらも間違いではありません。

だからこそみんなの想いを共有しあって
壊すのであれば残したいという人の気持ちを
残すのであれば壊したいという人の気持ちを汲んだ残し方を
将来見つけていければいい、と佐藤様は語ります。

「もちろん、遺族や当事者の気持ちは大事。
けれど、震災遺構は彼らのためだけにあるのではなく
50年後、60年後の震災を知らない人たちのため
県外などの遠い地域の人たちのためにもあると思う。
何十年後の未来、宮城県や岩手県などの地域に足を運んだ人は絶対に思うはず。
『何で昔の人はこれを残したんだろう』と。
そこに届くような言葉や活動をしていきたいと今日改めて思った」

この分科会に参加した全員にとって
とても有意義で貴重な時間になったと思います。

この場で出た震災遺構に対しての意見はどれも間違いではありません。
きっと、正解でもないでしょう。
それでも、良い話し合いのきっかけとなったことに変わりありません。

一人一人の活動によって
一人でも多くの命が守られますように。

これからも途絶えることなく
語り部として、防災・減災活動に取り組んでいくことを誓いました。

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